風評被害とは

お知らせ : 京都新聞
不安って、一人が不安を感じたらすぐに伝播してしまうものなんです。
確かに「震災で亡くなった方の魂を弔う機会になってほしい」とか「被災地の想いを無駄にしたくない」って言う思いもあるけど、「被災した松に放射能の影響が残っていたらどうする」とか「放射能が撒き散らされたら京都のイメージが落ちる」って言う思いの方が勝ってしまったんじゃないかと。見えないものに対する不安の方が強く映るというか。
そうだなぁ、これはスーパーで同じ野菜だけど東北産のものとそうじゃない産地のものが売られていたとしたらどっちを買うか?と言うのに似ているんじゃないかなぁ、と思ったんですけど。東北産でもお店に並ぶ前に放射線の検査は受けているわけで、検出されたら店に並ぶなんて事はないと思っていても実際にお店に並んでいるのを見たら結局迷ってしまうんじゃないかと。東北産のものを買ってあげたい、だけど…っていう気持ちが「買うことで被災地を支えたい」って言う気持ちに勝ってしまう、それで結局東北以外の産地の野菜を買ってしまうわけで。
その感情っていうのが今回の京都の大文字焼きの一件でも起こったんじゃないのでしょうか。って言うか、こんな風に放射能がどうのこうのって言い出したのは誰なんだろう。祭りには古くから死者の魂を慰める役割があったというのに、その役割すらわかっていないのかと。いや、役割を分かっていないというよりも役割を分かろうとしないんですかね…そんな考えだった人たちが少数だとしても、多数を占める意見を上回ってしまったのでしょうか。そういう連中の意見には左右されてしまうのってなんだかなぁ、と首を傾げてしまうんですが。この秋は京都に行くってウチのオカンは言ってますが、なんだか京都に行くのをためらってしまいたいなぁ…