「SENSE」に関する考察VOL.5(最終回)

5回に渡ってお届けしたコラムも、いよいよ今回で最後でございます。
発売直前までアルバム内容が一切明らかにされず、このご時勢で先行シングルなし・初回特典なし・露出なし・タイアップもあんまりなし・ミュージックビデオもなし(たぶん)と言う異常事態でしたが、フタを明けてみたら大ヒット…都心部では盛り上がってたけど地方では全然盛り上がってなかったなぁ。発売1ヶ月足らずでオリコン年間アルバムチャートに入っていたけど、ミリオンセラーは難しいんじゃないかと思いますが。
それにしても、音楽配信全盛の時代でとにかく徹底的に時代の流れに逆らっていると言うイメージがありました。だけどアルバムを聴いた時の衝撃というのはこういう発売の仕方だったからこその衝撃であって、このアルバムに関しては通常のルーティンワークでプロモーションをしたらこの衝撃は生まれなかったんじゃないか?。このプロモーションの手法はこの作品ではこうせざるを得なかったのかなぁ…とも思っております。アルバムを通して感じた事をいろいろ書いてみようか。

最少催行人員

ニューアルバムを通して、やっぱり小林武史色が強いわって思った。全体的に、サウンドの中でキーボードもしくはピアノが占める割合が高くなったんじゃないかな…コバタケ色が強いと言う事に関しては賛否両論あって、どっちかと言うと否という意見が多い印象があります。出しゃばり過ぎじゃないかって。だけど、ここ数年の流れを見れば自然にこうなったんだよなぁ、って感じ。特に今年はSplit the Differnceもラキラクナイトもap bank fesも5人でやっていたわけですから、昔よりも互いの信頼関係も絆も深くなってきていると思います。まぁ〜でもコバタケも50過ぎてますからねぇ、円熟味を増したと言ってもいいんじゃないかな…ap bank fesでも演奏したり、「HOME」以降ツアーに帯同するようになって、プレイヤーとしての快楽を得ている。プロデューサーとしてじゃなくてプレイヤーとしてのカラーも出てきて、それが強くなったなぁ…といった感じか。

先入観を捨てて

とにかく、ダイレクトに音楽を届けたいと言う意向があったからこそ、先入観を捨てて聴いてほしいと思ったからなのか、事前にアルバムに関する情報を遮断して、詳細は発売直前まで一切発表されない状況を作ったという事例を作ったんじゃないかと。聴く側に先入観を捨てさせて、発する側からは敢えて何も発さずにいる。ってことは聴く側の感覚がゼロの状態からアルバムと向かい合うわけで、どちらかと言えば「聴く側に全てを委ねさせる」って言う事なんだよなぁ。そして、沈黙の先に「音楽が今の私たちの全てである」と言うメッセージを感じたのですが。
その一方でティザー広告を大量に出してリスナーの心理を煽って煽って煽りまくった。情報化社会の今日にあって、焦らすと言う広告戦略は緻密に練られてるなぁ、と思わずにはいられない。しかし、全容が明らかにならないままで焦らされて戸惑っているリスナーを見て喜んでるんじゃないのか…うーん、もの凄いやられた!って感じがして悔しいんですよね。まるで手のひらでコロコロ遊ばれてるんじゃないかって感覚。遊ばれてキャーキャー言ってる私たちも喜んでるわけです。極限まで焦らされた中で、解放された音楽は衝動と絶頂でもって迎え入れられたのだった。

全体を通して思った事を後書きとして。

アルバムを聴いていて感じていた得体の知れない感覚、これはは何なんだろう…ってずっと考えていたわけですが、これはそうだなぁ…なんだか、妊娠中の胎内にいる赤ちゃんをエコーで見ている感覚と、分娩室にいて出産する時の感覚に似ている。もしくは、帝王切開での出産でも可としましょう。出産経験がない私がこんな印象を覚えるってのはどうかと思うんですがね。でも、生まれたばかりの赤ちゃんと産んだばかりのお母さんにも似ている、とても強い「生」の感覚が横たわっているのです。ちなみに私は逆子で予定日よりも2週間早く帝王切開で生まれてきました…
そして、やっぱり音楽に対する深い愛情と情熱を感じました。この長い沈黙は来年2月から始まる全国ツアーまで続くのでしょう。ステージに立ち、音楽が鳴り響き、歌が始まるその瞬間まで。アーティストからリスナーへ向けて、ダイレクトに音楽を伝える為に。
でも、こんなに焦らされるのはもうこりごりです。このツンデレ中年め!(コラ)