いろいろ考えてたの

そういえば、私は「痛みがわかる大人になれ」と言われた事は無かった。
しかし、小学生の頃住んでた団地の急な階段から転げ落ちたり、田んぼに落ちてどろんこになったり、歩いてて畑に落ちてケガしたり、道でコケて大怪我した跡に石が出来てたり(これホントです)、泥がたまってる所に足がズボっとはまって靴が脱げたり、足をひねって泣きながら家に帰ったり、氷の張ってる道の上で滑って背中を強打したり、温泉プールの階段を滑り落ちて全身を打って以来そのプールに恐くて行けなくなってしまったり、自転車で道を横断しようとしたら車に轢かれそうになったり(これもホントです)、高校生の時階段3段飛びで降りたら着地でコケて足首捻挫してたり…その時は痛い痛いって泣いてるけど、その痛いのを乗り越えれば意外にケロっとしてるんだなぁ。そして、「痛い」と言う感情を知る事によって潜んでいる危険を覚え、注意する事を覚えたりするんです。そんな事いっても痛みの記憶を忘れちゃう事も多いんだけどね。
そういえば、私の幼い頃に身内に不幸があって、小さい頃からなんとなく「自分が死んだらどうなるんだろうか?」と言うのを考える事が多かった。特に母の親戚なんだけど、母方の両親は既にもうこの世にはいない。特に印象に残ってるのはおばあちゃんが亡くなった時で、今で言う認知症もあって施設に入ってたんですが、亡くなる直前に一度だけ施設に行った時、完全に寝たきりの状態だったのを見て「もうあの頃のおばあちゃんは戻ってこないんだな…」と思ったのが最後で、そして亡くなった後に死に化粧と着物を着てた亡骸を見て「もう苦しまなくてもいいんだ」と思った、それが中三の夏の終わりの出来事。母ちゃんが涙ぐんでいたのも印象的だった。「死んでも悲しんでくれる奴なんていない」ってたまに思うんだけど、そう考えるたびに、私の前ではいつも通り振舞っててもふと見せた涙ぐんでる母の姿を思い出すんだ。

痛みをわかるって事は、やはり身をもって知る事なんだな、と思う。
痛みを知ってこその感情を持って、そして物事の善悪がわかる。アレだ、ゲームばっかりやってると暴力もバーチャルなものになるから痛みも死ぬ事も覚えない。バイオレンスな風景はゲームばかりじゃない。表現の自由は確かにその通りだと思うけど、その受け方によっては、受け手が犯罪者になる事だってある。そう言えば今日、犯罪が起こると対処療法的にいろんな事をやってるけど、そんな事ばかりでいいのだろうか?って言う新聞のコラムを読んだんだ。臭いものには蓋をしろ!って言葉があるけど、「子供の教育上良くない」と思えば臭い物には蓋をしろ的に抗議をすれば、CMも放送中止になる。今の世の中がこのまんまでいると、大人になっても痛みも知らず、感情を持たない人間が増えていくんだろうなぁ…